第1章 創業

1914大正3年

創業前の日暮里

明治後期から大正にかけての
創業地日暮里

明治維新期の廃藩置県に伴って東京府が設置され、明治11年(1878)に中心部の地域を15区に分けて東京市と制定した。今の荒川区のあたりは東京市下谷区という区名であったが、隣接していた日暮里周辺は、まだ東京府の日暮里村、三河島村、尾久村、南千住村であった。明治30年代(1900頃)に東京は市街化するにつれて、爆発的に人口が増加した。特に上野駅の東側から浅草寺の北側にかけて、現在の荒川区近辺は人口の増加が顕著で、江戸時代には栄えていなかった界隈に新しい人口が流入し、多くの労働者が住みはじめたのが、明治から大正のこの地域であった。

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大正から昭和にかけての日暮里の街並み

創業者 美須鑛

なぜ日暮里?

なぜ日暮里で創業したか

創業者美須鑛は、明治38年に栃木県烏山から上京し、日本橋三越呉服店に就職した。たいへん勤勉な努力家で、昼は働き、仕事が終わると夜学に通っていた。若くして業績が評価され、23歳(明治43)で三越大連支店に赴任し、その約2年後に帰国したが、翌年の26歳(大正2)の時に、起業を志し三越を退職する。
28歳(大正3)の時、神田に住んでいた美須鑛は、同郷栃木烏山出身の知人からの勧めで、現在の台東区千束町の中古のアパート物件47戸購入し、賃貸住宅経営を始める。
当時、東京の中でも特に人口の増加が顕著であったこの一帯は、田んぼや湿地などを埋め立てた賃貸アパート業が盛んだった。美須鑛はアパート経営で得た収益で、次々と周辺の土地を買い進めていった。人口の増加に伴い、埋め立て事業は各所で盛んにおこなわれていたが、この周辺の土地は、付近の工場の鉄鋼廃材などで埋め立てた粗悪なものであった。しかし、第一次世界大戦の開戦で、大正7年(1918)英国や米国が日本に対しての鉄鋼の輸出を禁止した事で、日本国内の鉄鋼の値段が暴騰を重ね、10数倍に跳ね上がった。美須鑛はこのブームに乗り、自分が買った埋め立て地から、次々と鉄鋼の廃材を掘り出し、大金を手にする事ができた。これを資金にして、最初に買った単身者向けのアパートを家庭向けのアパートに新築し、入居者も貧困層から家族ずれの庶民に変わっていき、当初47戸だった安アパートは、大正9年(1920)には100戸の美須団地となっていた。この評判は広まり、聞きつけた借金で首が回らなくなっていた植木屋から、日暮里駅前の“かんかんの森通り”付近の、約2000坪の土地を買ってほしいと嘆願される。それを購入し、直ちに住宅街に開発すると、その近所の土地を持て余していた地主から次々と声がかかり、結果的に日暮里駅前に所有する土地はおよそ3000坪になった。

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1922大正11年

チッタの原点「金美館」

金美館のはじまり

美須鑛が土地を購入した日暮里のこの一帯は、工場や問屋が多く、必然的に労働者がたくさん集まり、住み着く人も増えていた。美須鑛はこの街の様子を見据え、「美須街」という街づくり構想を描き、着々と準備を進めていった。この当時のかんかんの森通りは、付近には田んぼが広がり、まばらに商店が点在するだけの寂しい道筋で、もちろんガスや水道などはまだ無く、共同井戸に薪や木炭で生活する街並みだった。
大正10年、そこに住宅街、娯楽施設、共同浴場、衣料品店(呉服店)の建設が始まった。
そして大正11年(1922)2月11日、東京府下北豊島群日暮里町字金杉1796(現在の東京都荒川区東日暮里2丁目)に映画館を開業する。住所の金杉の”金“、美須の”美“をとって第一金美館と名付けられた。
こけら落としの上映作品は、松竹映画「虞美人草」(1921年公開作)である。
その当時の街の様子を、荒川区民族調査報告書「日暮里の民族」では次のように記してある。「大正十年頃には、かんかん森通りにはしもた屋※や商店がちらりほらりしかなかったが、美須興業が地域の開発に乗り出してから急速に発展してきた。美須興業により展開したのは映画館や寄席だけではなく、銭湯まで経営し、その近くには居酒屋、床屋、洋食屋、射的場、碁会所などが展開し、その風景は、…あたかも今ならテレビでよく見かける、映画撮影用の大セット村を実在させたような大遊楽街でした…」(原文ママ)
※しもたや:商店街の中にあって商業を営まない住み家
さらに翌年、隣町の南千住字千束町に第二金美館を開業する。この場所は、最初のアパート経営から100戸の美須団地にした地域で、第一金美館を開業した時に、すでに“第一”と命名されていたことから、この第二金美館の計画は最初の段階からあったと思われる。
そして、第一金美館が開業してまもなく、その盛況ぶりを羨望した地元の人たちが株式会社を立ち上げ、対抗すべく“日暮里館”という映画館をすぐ近所に開業させる。しかし、地元の庶民たちは、暮らしを豊かにしてくれた美須鑛への熱い支持があり、あえて金美館に通った。そのため、日暮里館は客足がさっぱり伸びないばかりか、株主が多く上映作品の選定は必ずもめて、従業員もいつかず、すぐに経営悪化に陥った。結局、美須鑛に泣きついて売る事になり、これが第三金美館になった。

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チッタグループの歴史のスタートとなった
映画館「第一金美館」(1922年)

1923大正12年

関東大震災の悲劇と復興

関東大震災

映画館事業が軌道に乗り始めた大正12年(1923)9月1日11時58分、マグニチュード7.9の巨大地震が関東地方を襲った。この時、昼食の支度中の家々から火災が発生した。しかもこの日は、台風が日本海沿岸を進んでいたため、関東地方には刻々と風向きが変わる強風が吹いており、これが延焼を拡大する大きな要因となった。東京市は下町から山の手にかけて市街地の三分の二が焼失または全壊し、死者・行方不明者は10万人を越えた。
第一金美館、第二金美館、公衆浴場や店舗などは全焼したが、第三金美館だけは焼失を免れた。震災後、焼け残った第三金美館には娯楽を求めて人が集まり始めた。東京で多くの映画館が消失する中、第三金美館には娯楽を求めた人たちが集中し、その興行収入を資金に第一金美館、第二金美館を再建し、さらに店舗拡大に力を注いでいくことができた。

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関東大震災の被災地の風景

映画館事業を本格化

映画館経営の拡大

大正デモクラシーの時代背景がある中で、大正10年に「借地法」「借家法」が、賃借人の立場を保護するために制定された。ところが、人助けのつもりで温情をかけていたアパートの住民から、これに乗じて権利だけを主張する恩を仇で返すような輩が現れはじめた。このような事から、住宅事業から娯楽事業に方向転換するようになっていった。
日暮里から始めた映画館事業は、町屋、尾久、王子、大塚などに金美館を出店、または、既設の映画館の経営権を買収しながら事業地域を拡大していった。なぜこのような場所に出店をしていったのか、これは当時の王子電気軌道(現都電荒川線)が関係している。
明治初期から東京の中心地には馬車鉄道の交通網があり、市民の足となっていたが、日暮里や王子のような郊外は、集落を結ぶ公共交通機関がなかった。王子電気軌道は、渋沢栄一氏などの援助により明治44年に大塚-飛鳥山間が開業し、大正2年には飛鳥山-三ノ輪間が開通している。これにより、日暮里の横から大塚まで直通運転で行けるようになった。この王子電気軌道が結んでいた郊外の集落が、美須鑛が出店していった地域である。
まず尾久にはこの当時温泉が湧いており、街は旅館や飲食店で賑わい、数百人の芸者がいた一大歓楽街だった。
また、王子には約300年前に、徳川吉宗が作った桜の名所「飛鳥山公園」があり、東京市民の避暑地として愛されていた行楽地がある。そして、大塚は中仙道に面していたことや、「巣鴨天祖神社」など神社や寺が多く、江戸時代から明治時代にかけて既に繁華街として発展していた。
現在からは想像もつかない様子だが、これらは大正から昭和初期にかけて、田んぼが広がる東京市郊外に点在する歓楽街や繁華街であった。美須鑛はこの時代に発展していった王子電気軌道に乗って、日暮里からこれらの街に経営拡大をしていった事が推察できる。
その後、昭和時代になるとさらに映画事業に本腰を入れる。昭和2年に映画配給会社「三立商店」を設立し、映画配給事業を開始。東京中心部から関東地区の映画館への映画配給を行ない、これに合わせてさらに劇場経営を拡大していった。

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尾久金美館
(大正13年開業※写真は昭和8年)

「第2章 川崎進出~戦後の復興」に続く
次回更新予定:8月中旬予定