第2章 川崎進出
昭和12年
川崎進出
川崎に進出。
川崎映画街づくりの始まり
実業家として有名になっていた興行師美須鑛は、経済界でも人脈が増えていった。
そんな中、金美館チェーンを拡大させる様子を見ていたある銀行の紹介で、川崎駅前の約2600坪の土地を事業候補地として勧められる。
ところが、この土地は駅前とは名ばかりで、周辺に工場や民家などはあるものの、この一帯だけは荒涼とした湿地で、葦が生い茂り、小川が流れ、子どもがドジョウやカニ採りをしているところであった。
しかし、自分の思い描いた街づくりをするには白紙の状態が良いと考え、美須鑛はこの荒れ地を購入することを決断した。
川崎のこのあたりは昔から宿場町として栄えていただけでなく、臨海地区に広がる工場街には多くの労働者が務めているため、市場的にも娯楽事業には適していると判断したのだ。昭和12年川崎出店第一号の銀星座をオープンさせると、その後も次々に映画館を建設し、3年後には6館の映画街となっていた。さらに映画館だけではなく飲食店なども展開し、湿地帯だった荒れ地は一躍繁華街となっていった。
そして、昭和15年になると、東京と神奈川で展開する直営館や、間接的に運営をする映画館は、合わせて27館になった。その後、映画産業が発展するにつれ全国的に映画館の数が増え、興行界全般で映写技師が不足し始めた。美須鑛はこの問題を解決するために、東京市京橋区西銀座(現有楽町数寄屋橋付近)に日本初となる映写技師を養成するための「日本映写技術学校」を設立する。
川崎映画街建設予定地
葦が生い茂る荒涼とした湿地帯だった
川崎進出第一号となった映画館
「銀星座」
昭和16年
太平洋戦争
戦争の始まり。
川崎大空襲の悲劇。
川崎は軍需工場の新設ラッシュと町村合併で、昭和15年(1940)には人口30万人を越えていた。この流れで川崎の美須映画街は賑わい、映画館事業も順調に拡大していった。
しかし、昭和16年(1941)12月、日本海軍の真珠湾攻撃により太平洋戦争が開戦すると、世の中に立ち込める暗雲が色濃くなっていく。
翌年の昭和17年(1942)4月、米国が日本本土の空襲を開始し、東京中心部の荒川、王子、小石川、牛込の地区が爆撃された。その後さらに戦火は激しさを増し、昭和19年(1944)11月から米国は日本各地の都市部に頻繁に空襲を繰り返すようになる。
同年の大晦日の深夜から元日の未明にかけて、浅草や日暮里などの下町地区は焼夷弾によって爆撃された。そして昭和20年3月10日に東京大空襲がある。300機以上の爆撃機B29が夜半にかけて襲来し、一晩で1800トンの焼夷弾による無差別爆撃を行ない、東京市街は火の海となる。
一晩で民間人の死者は10万人以上、中心部のほとんどが焼け野原になった。
夜ごとにオレンジ色に染まる東京の空を見て怯えていた川崎市民も、4月15日に川崎大空襲を受ける。夜10時頃から始まった空襲は3時間以上にも及び、六郷土手から臨海部の工場地帯にかけて一帯は火の海となり、街はすべて焼き尽くされた。これによって美須の映画館は、溝の口の高津映画劇場と日暮里の第三金美館だけとなり、あとはすべて焼失してしまった。その後も米国の空襲は、日本各地の地方都市に及び、そして8月6日に原爆を広島に投下、続けざまに8月9日に長崎にも投下する。その後8月15日の終戦まで空襲は日本各地で続いた。
太平洋戦争 B29空襲
©川崎市平和館
当時の映画案内誌表紙
(昭和18年発行 高円寺映画劇場)
昭和20年
戦後の復興
ほぼ全てを消失。
ゼロからの復興計画。
美須鑛は一面灰色の焼け野原になった川崎の街を眺め、一刻も早く人々に笑顔を取り戻したいと一心に思い、すぐに復興に着手することを考えた。その為には、まず川崎の一極集中で事業を展開することを決断する。
そして、戦火を逃れ生き延びた従業員たちと、寸暇を惜しんで映画館を再建する事に奔走した。
建築資材を払い下げてもらうために、焼け残った古材を探してまわり、燃え残った木材から曲がった釘を引き抜き、次々と建築用の資材に形成していった。それでもまだ足りなかった為、故郷の栃木烏山に行って、杉の木が生い茂る山ごと買い取り、材木を切り出して川崎に運んだ。
そして川崎大空襲から僅か半年余り後の昭和20年11月、バラック屋根の銀星座を再開させることができた。戦争ですべてを失い傷ついた市民に希望と笑顔を与え、人々の列は延々と続いたという。
たいていの戦災都市は、生きるために必要な食品や衣料品などの闇市が復興のきっかけになるが、川崎だけは例外で、川崎映画街の復興がその主導役を務めたと言われている。
大空襲により焼け野原になった川崎市街
©川崎市平和館
昭和24年
銀柳街
賑わいを取り戻す川崎。
美須街としての再建。
次々と映画館を再建し、昭和22年には、川崎駅前は再び6館の映画街となっていた。
その後は映画館運営だけでなく、女性も働くことで人々の暮らしが豊かになるよう洋裁学校を開校し、さらに戦後は結婚ブームが来ることを見越して、結婚式場を兼ね備えたホテルも建設。
こうして美須街は賑わいを取り戻していった。一方で京急川崎駅前も商店が賑わいを取り戻しつつあった。しかし、川崎駅界隈は局所的に賑わいがあって、美須街と京急川崎駅前の繋がりがない。そこで、街を一つにする事を考えた美須鑛は、二つの盛り場を繋げるために自費で街路樹の柳の木を300本調達した。
これにより京急川崎駅前と美須映画街を結ぶ、柳の街路樹の通りが昭和22年に完成した。
やがてその通りにも行き来をする人たちで活気が芽生え、昭和24年になると商店会が発足した。美須街の映画館の銀幕から「銀」の言葉を選び、街路樹の柳と結び合わせて、商店会は「銀柳会」と名付けられた。
川崎復興祭(昭和22年)
柳の街路樹で活気づく銀柳会商店街
(昭和27年)
昭和25年
蒲田映画街
映画街の発展
「映画の都」蒲田
美須鑛が次の事業候補地として検討していたのが蒲田である。昭和24年の国鉄蒲田駅前は、東口と西口で復興に大きな差があった。
全く復興が進まない東口は、商店街の通りがあるだけで、あとは進駐軍に接収された広大な土地が広がり羽田空港に運搬するための砂利置き場になっていたが、この土地は翌年には民間に返還される予定だった。それに対して西口には商店と闇市が広がり、絶えず人が集まっていた。
そんな西口付近にはまとまった土地があり、美須が映画街構想のために買収交渉を始めていた。一方で東口商店会は、復興を果たすためには強力な原動力が必要であると考え、川向うで見事に戦後復興を果たした川崎美須街のような原動力は、喉から手が出るほど欲しい存在であった。
その美須の開発計画が西口にあるという情報を東口の商店会が入手した。そこで、東口の有力者や地主達が集まり、美須鑛を訪ね、東口の開発要請を何度も行った。かくして美須鑛は、昔、東口に松竹撮影所があった頃、「映画の都」と言われたような賑わいを取り戻すことを、東口商店会に約束した。
そして昭和25年、荒涼とした砂利置き場だった広大な空き地のど真ん中に、映画館が立て続けに3館登場した。出店するまでは賛否両論あったが、その様子は大きな反響を呼び連日長蛇の列ができた。その後も次々と映画館を建設していき、たちまち都内屈指の映画街となった。人気の映画フィルムは、電車で川崎と蒲田を“掛け持ち”したほどである。
美須鑛という一人の男の、人々の暮らしを豊かにしたい、みんなを笑顔にしたい、という熱い思いが原動力となって、川崎も蒲田も街が大きく発展を遂げる事ができた。
第一金美館があった日暮里の街は、「東京大空襲のあと美須がこの地を去り、街の繁栄は20年間で幕を閉じた」。このように、荒川区民族調査報告書「日暮里の民族」には記されている。
蒲田東口駅前通り(昭和24年)
©大田区提供
蒲田映画街(昭和31年)
昭和30年
テレビの普及
高度経済成長
先読みの映像事業
映像や動画を観るためには映画館に行くしかなかったこの時代、映画本編の上映前には必ずニュース映像が流れていた。当時の日本人は、映画館で観る様々な映像を通して、社会情勢や海外の文化などを学ぶことが多かった。映画は戦後もっとも庶民的な娯楽であり、情報見聞の役割も果たしていた。
ところが、戦後復興が進むにつれて日本にもテレビが登場する。昭和28年NHKの本放送が始まり、民放各局も競って開局していく。しかし、初期のテレビの値段は、サラリーマンの年収とほぼ同額で、庶民の暮らしにはあまりにも高すぎて、ほとんど普及しなかった。そのため駅前や電気屋の店頭に設置された街頭テレビのプロレス中継や、大相撲中継にはいつも黒山の人だかりができていた。
昭和34年に明仁皇太子殿下と美智子様の婚約が発表されると、ご成婚パレードをテレビで見ようと、高価なテレビが飛ぶように売れはじめ、普及率は25%に達した。やがてテレビは、冷蔵庫、洗濯機と共に、三種の神器として憧れの文明生活には必要不可欠な存在になり、普及率は昭和37年に50%に達し、東京オリンピックが開催された昭和39年には90%を超えていた。映像は暮らしの一部となり、テレビを見ながら食卓を囲む一家団欒が庶民の日常になっていた。それまで娯楽といえば映画であったが、その座はテレビに奪われつつあった。
こうなる事を予想していた美須鑛は、遡ること昭和28年NHKがテレビ放送を開始した年に、「日米テレビ」というテレビの製造販売の会社を設立していた。米国の最大手電気機器メーカーと技術提携をし、川崎市内に製造工場を建設してテレビの生産に乗り出していた。
この時点では政府による放送事業の準備が整っておらず、東京タワーはまだなかったため、テレビ電波は各テレビ局の屋上に設置されたアンテナから送信されていた。そのため美須鑛は、自社製品の受像試験を行なう為に、自ら山岳地帯や伊豆諸島にまでテレビを持って行くなどし、品質の高い製品づくりに奮闘した。
そしてすぐに一般家庭への普及は困難であると考え、まずは企業や工場などの職場に導入を促し、福利厚生での視聴目的や、学校や公民館など地元団体での共同購入を促す販売戦略を実施した。
テレビがこの世に存在していなかった時代、ビジネスモデルがない事業は何事も初の試みであった。
「日米テレビ」国内の組み立て工場
「日米テレビ」当時の
チラシ