第4章 エンターテイメントの革命
昭和63年
クラブチッタ誕生
ライブシーンにも、
日本の文化にも、革命を!
美須孝子は映画館ビジネスに革命をもたらしただけでなく、さらには音楽ジャンルにおいて、観客とアーティストの距離を縮め一体感を生むライブ空間を築き、ライブシーンを次の次元に引き上げた。既存のコンサートホールとライブハウスの中間的な、スタンディングで1000人以上が収容できる“ライブホール”の登場によって、日本の音楽ライブの文化は大きく変わった。
戦後間もない頃から行なっていた様々なイベントも、“人を楽しませる”という会社の精神として受け継がれ、世代が変わっても社風として脈々と続けられていた。
平成9年に始まった「カワサキ ハロウィン」。ありきたりなイベントでは物足りなくなり、まだ日本では馴染みのなかった欧米の習慣であるハロウィンのイベントを取り入れた。最初は手の空いている社員も駆り出され、仮装して通りを練り歩いた。かき集めた150人で始まったこのイベントは、20年後には全国から12万人を動員するイベントにまで成長した。テレビや新聞などのメディアが毎年この様子を報道したことで、このイベントは全国各地に広がり、ハロウィンはクリスマスと同様に異国の文化でありながら、日本の風習となって定着するまでにいたった。
また新しい日本のエンタテイメント文化を創り上げた。
日本のライブシーンを大きく変えた
ライブホールCLUB CITTA’
国内最大級のハロウィンイベントへと
成長した「カワサキ ハロウィン」
第一回仮装コンテストグランプリの
二人(1997年)
平成14年
ラ チッタデッラ誕生
イタリアの感性で
川崎の街はさらなる飛躍を
平成5年以降になると、外国資本のシネマコンプレックスが次々と日本に進出してくる。1990年代はシネコンラッシュである。アメリカの郊外にあるショッピングセンター型のシネコンが、人口の密集している都心ではなく、郊外や地方都市に乱立する。その快適な映画鑑賞環境は日本各地で人気となり、レンタルビデオに脅かされていた映画館は、シネコン人気で来館者が戻りつつあった。
この潮流を見極めながら、川崎にはまだポテンシャルがある、街はもっと良くなれる、そう考えた美須孝子は美須鑛の遺志を継いでさらなる本格的な街づくり構想を描く。美須孝子は公私においてイタリアとの関係が深く、イタリア人が人生を前向きに楽しんでいる感性をエンタテイメントとして取り入れたいと思った。そして行動する。まず世界的に有名な建築家ジョン・ジャーディー氏に会うためにロサンゼルスに飛び、街づくりの構想の話を持ち掛けた。この事業に参加してもらうよう交渉を繰り返し、合意を得ることが出来た。
それから美須孝子はイタリアの街を見て回った。考えていたのはチネチッタやクラブチッタなど、既存の建物をすべて取り壊し、そこにあらたにイタリアの街を創ってしまうという大胆な構想だ。
そして平成14年(2002)実現したのが、イタリアのヒルタウンをデザインモチーフにしたエンターテイメントの街「ラ チッタデッラ」である。丘の上に続く一本道を歩いていくと、道沿いにはカフェテラスやレストランが軒を連ね、食事やお酒を楽しむ人たちの声が聞こえ、丘の上まで行くとチャペルがあり、祝福に溢れる結婚式を挙げている。12スクリーンの最上級仕様のシネコン「チネチッタ」もある。「クラブチッタ」もパワーアップした。新しいイタリアの街が一つ誕生した。
ラ チッタデッラを訪れた人は、日常生活からかけ離れた異空間に包まれ、現実の境目が曖昧になり誰もがその街の魅力に酔いしれた。映画を観に行く、食事をする、お酒を飲む、日常に存在する当たり前の文化を大きく変えた。
オープンした翌年の2003年から2006年まで、シネコンのチネチッタは、年間動員数、興行収入において4年連続で日本一となる。ラ チッタデッラを訪れる人は年間250万人を越え、商業施設として周辺と世界観を隔絶するのではなく、川崎の街の一部として存在し、賑わいの中心的な役割を果たすように努めた。
イタリアのヒルタウンをデザイン
モチーフとした「ラ チッタデッラ」
チネチッタV4達成のロゴマーク
平成23年
平成・令和の大災害
人々の心を変えた
大きな出来事
大正14年に発生した関東大震災から88年、昭和20年の終戦から66年が経過した平成23年(2011)3月11日、14時46分東北地方の太平洋沖でマグニチュード9.0の地震が起きた。東日本大震災である。日本観測史上最大の地震は、海底が震源であったため大きな津波となり、東北地方の沿岸域の街を呑み込みこんだ。死者行方不明者は1万8千人を越え、北海道の南岸から東北地方を経て、東京湾を含む関東南部に至る広範囲で大きな被害を出した。
押し寄せてくる海水に街が呑み込まれていく鮮明な映像が、リアルタイムで次々とメディアから流された。スマホなどの撮影機能付き通信端末を誰もが所有している現代は、関東大震災や太平洋戦争などの時代との大きな違いであった。平和に今を生きる日本人は、自分の国で起きている災害に精神的な免疫がなく、大切な人の命やすべてを失っていくこのショッキングな映像を見て、人生の価値観が変わっていった。これまでの物質的なことで幸せが得られるという概念から、家族や友人と共に日常を何事もなく生きる事が幸せ、という価値観に変わった。
さらにこの津波は、福島県沿岸にある福島第一原子力発電所を直撃し、深刻な原子力事故となった。周辺区域が放射性物質で汚染されただけでなく、首都圏を含む福島第一原発が電力を供給する地域は電力不足に陥り、計画停電や節電が続き、都市機能は完全に麻痺をした。被災していない地域でも電力不足は続き、ラ チッタデッラも休館を余儀なくされる日もあった。
そして、平和な生活を取り戻したその8年後、全く予想していなかった災害に世界中が見舞われる。令和元年(2019)12月、中国で新型コロナウィルスという未曽有の伝染病が確認されたという一報があった。このニュースはさほど大きく取り上げられる事はなく、どこの国の人たちも自分とは無関係だと思っていた。それがわずか数カ月で世界中に感染し、次々と死者が出た。未曽有の伝染病の感染を防ぐため、世界中で海外の渡航が禁止されるだけでなく、国内での移動も制限された。政府は緊急事態宣言を出し、生活必需品を扱う店を除いてすべての店は休業を強いられ、学校は長期の休みになり、外出も制限され、人々は家から外に出られなくなった。街はゴーストタウンのようになり、2020年の夏に行われるはずだった東京オリンピックも1年延期になった。世界中の国の機能が麻痺し、経済に大きな打撃を与え、人の暮らしを一変させたこの事態は、2022年がまもなく終わりを告げようとしている今も完全には沈静化していない。
開業以来初めて閉鎖を余儀なくされた
ラ チッタデッラ
令和04年
次の創造者が未来を創る
これまでの歴史の変遷とは違う
新たな次元の始まり
今から99年前、関東大震災で都市が壊滅してから復興し、その22年後の太平洋戦争で敗戦し、またすべてが灰になった。22年間で二回も襲った災害で、街はおろか国までが崩壊したが、復興から高度成長期を経て今に至っている。そして、またこの10年間で未曽有の大惨事に二回も見舞われている。
東日本大震災という大災害が、平和が続き脆弱だった日本人の価値観を大きく変えた。人々を支えている大切なものは「絆」であると知らされた。しかし、今度は新型コロナウィルスが世界中にまん延し、感染を防ぐために、人と人が会う事を許されなくなってしまった。それでも閉ざされた空間から、会えなくなった人と会うために、通信手段の発達で世界中の人々は繋がっていった。このような事ができたのは、1990年代にインターネットが普及し、世界中の通信インフラが大きく変化した事で、様々な分野における技術がめざましい進歩を遂げたからである。さらにスマホの登場で、人々の暮らしも心も劇的に変化し、これまでの歴史とは違う人類の進化が始まる事となった。
人が幸せを求める時、何によって満たされるのか、文明の進歩から文化の進化へ、これまでの論理では通用しない新しい次元の進歩が始まろうとしている。世界中の人たちが、先の予想がつかない新しい世界の入り口に立っている。
ここから始まる次の100年のスタートラインに、美須家四代目の美須アレッサンドロ社長は立ったばかりだ。
2022年10月。川崎ブレイブサンダース
のバスケットコートがオープン
2022年11月23日
CITTA’ HISTORY GALLERY
CITTA’ DNA Grand Open!
チッタグループの100年間の事業変遷と、貴重な写真や資料を、チッタらしい遊び心に富んだ斬新な切り口で紹介した歴史ギャラリーがオープン!
ぜひ貴重なポスターやパンフレットと共にチッタの歴史に触れてください。